弘前大学人文社会科学部北日本考古学研究センターでは、令和5年9月2日(土)に弘前市清水森西遺跡発掘調査の現地説明会を行いました。弘前市清水森西遺跡では、これまでの調査により、津軽地域では数少ない弥生時代中期初頭五所式の集落が発見されました。調査では、竪穴住居跡5軒、墓址3基、そして掘り込みが深い特異な大型竪穴建物跡1軒が検出されました。大型竪穴建物跡1軒については、昨年度の調査で実態が不明だったため、今年度はこの建物跡の性格を明らかにするための調査を中心に行いました。
今年度の発掘調査の結果、大型竪穴建物跡のほかに土坑1基、遺物集中区1基、埋設土器1基が見つかりました。これらのうち、大型竪穴建物跡は、中央に大きな石囲炉を伴う焼失住居跡と分かりました。またこの建物跡からは土器や石器、玉や石鏃など多くの遺物が見つかりました。そして、土坑からは副葬品とみられる壺、埋設土器の覆土上部からは小型土偶が見つかりました。さらに、土壌をフルイがけしたところ、100粒以上になる炭化米が見つかりました。またイネ圧痕のある土器も複数見つかりました。これらのことから、比較的安定したイネ栽培が行われていたことが分かります。そのほか「類遠賀川系」と呼ばれる西の弥生土器の影響を受けた土器や、北海道産の石材で製作された石斧がみつかり、南北双方との交流が盛んだったことが分かります。
清水森西遺跡は、弥生時代の年代の物差しでみると、津軽地域では砂沢遺跡に代表される砂沢式(前期)と垂柳遺跡に代表される田舎館式(中期中葉)の間の五所式に位置づけられています。砂沢式と田舎館式は、弥生時代水稲農耕文化の北限の地として知られていますが、縄文時代から続く岩木山麓の立地を生かした砂沢遺跡と、津軽平野の中心部で500枚以上の水田が見つかり大規模な水田経営を行っていた垂柳遺跡との間に極端な変化が見られます。水田北限の地で、どのような過程で水田が大規模化したのか、その理由も五所式の集落の実態が不明のため、なかなか解明できませんでした。
しかし、今回の発見により、不明だった集落の実態が明らかになるだけでなく、前期から中期中葉への水稲農耕の定着過程の時間的空白を埋めることにつながります。今年度で現地での一連の発掘は終了となります。本調査の成果は今後、遺構や遺物の整理や図化、理化学的分析などの学術資料化を経て、学会発表や展示へと役立てられる予定です。分析の過程で再び新たな発見があるかもしれません。
【弘前大学人文社会科学部 北日本考古学研究センターHP】https://human.hirosaki-u.ac.jp/kitanihon/